映画『君の名は。』のピンときたポイント 【ネタバレ】

新海誠監督の映画『君の名は。』を見てピンときたポイントをあげておく。


ポイント1: 君になりたい

リオ パラリンピック閉会式の東京プレゼンテーションで演奏された『東京は夜の七時』Pizzicato Fiveのスタンダードナンバーだけど、その彼らの曲に『君になりたい』という曲がある。

Pizzicato Five『君になりたい』は願望を歌っているだけだが、『君の名は。』では瀧や三葉が相手に入れ替わる様子を疑似体験させてくれる。僕も恋している女の子に入れ替わって、その女の子の見えてる世界を見たいと思ったことが何度もあるので、恋しい相手と入れ替わるという設定はピンとくるポイントだった。

劇中では、最初は二人とも相手に入れ替わって自分勝手なことをやっているが、だんだんと相手を思いやりながら入れ替わるようになる。そして最後の方では相手と再開すべく、救うべく悲壮的にお互いに入れ替わりたいと願っている。

この作品では「好き」というセリフはほとんど出てこないけども、その気持ちの強弱が「君になりたい」という描写とうまくリンクして表現されているなぁと思った。

ポイント2: 恋しい気持ち以外のモノを思い出したい

僕は若いころは恋しい女の子の顔が思い出せないという体質(?)だった。恋しい女の子の顔は毎日学校で見ていたけど、家に帰ってお風呂に入っているときとか、寝る前とかにその女の子の顔を思い出そうにも、はっきりと思い出せなくて歯がゆい思いをよくしていた。なので恋している女の子が写っている学校の集合写真などを何度も見てホッとした気持ちになっていたのを憶えている。友達の顔なんかは写真など見なくてもすぐに思い出せたのにすごく不思議だった。

君の名は。』では瀧も三葉も相手の名前、容姿、性格、属性を忘れてしまうわけだけど、恋しい気持ちだけは遺(のこ)っているという設定である。恋しい気持ちは非常に強くて相手のことを思い出したくて仕方ないのに、思い出せない歯がゆさは、先述のとおり僕も体験しているのですごくピンときた。

恋しい相手の顔を思い出せないという体験は僕だけのものかと思ってたけど、もしかして新海監督も同じような経験があるのだろうか?もしそうだったら監督本人に話を聞いてみたいな。

ポイント3: 恋している理由を探し求めたい

僕は恋したら、その恋している理由を探求したいタイプで、腹落ちするための理由をたくさん見つけたいと思う。

君の名は。』では二人ともお互いに恋している理由が出てきていない。奥寺さんはバイト先のアイドルで職場の全員が恋しているという描写があって、それが当初に瀧が奥寺さんに恋していた理由にもなっていたりするけど、瀧と三葉の間の恋にはその理由がほとんど提示されていない。顔が可愛いとかかっこいいとか、性格がいいとか、そういった理由はなくて入れ替わる相手だからという関係性の理由しか見当たらない。唯一あるとすれば瀧から見た三葉への恋の理由が組紐を三年前に見ず知らずの三葉からもらったというものだろう。

恋している理由を探し求めたい派としては、鑑賞しながら二人が恋している理由を探すわけだけど、結局は見つからずに見終えてしまった。というわけで恋している理由は僕が想像で埋めなくてはならず、それが鑑賞後の余韻となって、しばらく理由を妄想しながら楽しむことができた。

ポイント4: 恋する女の子の心理描写を見たい

三年前に三葉は恋する気持ちで瀧に会いに行く。すでに瀧とは間接的なコミュニケーションをとって仲良くなっているから、直接会っても三葉はこれまで通りのコミュニケーションがとれるだろうと思いきや、瀧の素っ気ない対応で一気に自信をなくし消極的になってしまう。

僕が三葉だったらそんな風に消極的になって会話をしないなんてことはないけど、女性だったら共感できる描写なんだろうなぁと思う。

新海監督の映画『秒速センチメートル』の『コスモナウト』に登場する澄田花苗もそうだった。相手のパーソナルスペースに思いっきり入り込んでもなお、相手の前では思いを伝えられず、うまくしゃべることができない。そういう描写によって実世界にいる同様の女の子(男の子も)への理解が進むように思う。

怖くて気持ちが伝えられないとか、あだち充 作品のように素直に気持ちを伝えられないとか、女の子が恋している描写として王道だとは思うけど、『君の名は。』ではそれがすごく自然に描写されていたと思う。

最後に

以上で述べたように映画『君の名は。』では恋をするということに関してピンとくるポイントがいくつもあって、2時間という限られた時間でありながら、恋愛を疑似体験したり、過去に抱いた恋心みたいなものを再燃させることができた。

そして、ポイント2で述べた「恋しい気持ちだけが遺(のこ)っている」というのが上手に表現されていて、それが何より素晴らしかったし、非常に感動的だった。過去の恋愛を引きずっているときにも「恋しい気持ちだけが遺っている」状態があったりする訳で、そういうところで共感を呼び起こしやすいんじゃないかと思っている。

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瀧と奥寺さんは四ツ谷駅から紀尾井町ストリート、弁慶橋と歩いて、弁慶濠を迎賓館(赤坂御所)のほうに上っていき、四ツ谷駅に戻る。この写真はその弁慶濠を迎賓館(赤坂御所)のほうに上っていく道をホテルニューオータニ別館側から写した遠景。僕も高校生のときこの辺りの道をよく歩いた。

「他のブログの文章を簡単に「引用」できる機能」を試す

どれどれ。。。

2015-08-26 他のブログの文章を簡単に「引用」できる機能を追加しました 新機能 はてなブログでは、他のはてなブログの内容に言及した記事を執筆する際に、文章を正しいフォーマットで簡単に引用できるようにしました。これはPC版の機能として、次の2つで実現しています。 はてなブログを閲覧中に、マウスで選択した文章をストックできる「引用ボタン」を表示します 記事編集画面で編集サイドバーに「引用貼り付け」タブを追加し、ストックした引用を貼り付けることができます 貼り付けられた文章は、引用と出典を表すフォーマットで記述されるため、どこからどこまでが引用で自分の意見がどこに書かれているかがわかりやすく、引用元も明確になります。どうぞご利用ください。

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ほほぅ

東京五輪 エンブレム問題について思うこと

本文「五輪 エンブレム」を検索 - はてなブックマーク

上記の件、個々の作品の善し悪しではなくて人物や審査員の「信用」、選定プロセスの「信用」について世間は問うていて、高い関心につながっているんだと思っている。

新国立競技場の件もだけど、信用毀損が判明したり実現性に問題が生じた場合に、一度決定したものをキャンセルして次順の候補を繰り上げるプロセスに、なぜなっていないのだろうか。五輪の各競技では後日違反が発覚すれば、本人の故意有無に関わらず金メダルを剥奪して次順が繰り上がる仕組みが導入されているのに。もし五輪競技において、後日違反が発覚しても金メダルを剥奪できないルールだと、やはり多くの人が感情的に関心を寄せることになるだろうなぁと容易に想像できる。

次順の候補を繰り上げるプロセスを導入していれば、多くの人がここまで感情的にならずに、本人も必要以上に名誉を傷つけられることもなく、「作品の信用性に関して重大な問題があった」というニュースを無感情に消費して問題収束したと想像する。

というか、そういう五輪準備に関するトラブルは長い歴史に幾度となくあったはずで、そういう事例やトラブル軽減のためのノウハウなどは開催国に継承される仕組みになっていないのかなぁ。

“Pogo” ディズニーアニメのセリフと映像から新たな音楽を創造。海外のスゴいアーティスト発見!

2013年8月現在、Googleで検索しても日本語で情報がほとんど出てこない海外のスゴいアーティストがいる。ステージネーム “Pogo” ことNick Bertkeというオーストラリアのアーティストだ。

Nick Bertke
via pogomix



百聞は一見にしかず。まずはディズニーアニメとディズニーの実写映画『メリー・ポピンズ』をミックスした Bloom というYouTube動画をご覧あれ。

 

不思議の国のアリスや白雪姫といったディズニーアニメのセリフと映像を細切れ(=サンプリング)し、独自の電子音楽の上にサンプリングした音部品を再配置(=ミックス)して、歌や効果音にする。ミュージックビデオでは細切れにした映画の実際の映像もセリフに合わせて、あるいは効果的な方法で再配置されていてコミカルな映像表現となっているのも特長である。

音楽性はテイ・トウワFantastic Plastic Machineに近いだろうか。僕はどちらのアーティストの曲も大好きなので、“Pogo”の曲もすぐに好きになった。“Pogo”のミュージックビデオの良いところは観て楽しめるという点だ。

次は、Microsoft社のWindowsXboxといった製品から発せられる効果音や同社の製品発表会の映像をミックスしたビデオ(本編は0:18からスタート)。YouTube上ではMicrosoft社のオフィシャルビデオになっているようだ。ビル・ゲイツスティーブ・バルマーといった面々が歌手として参加しているかのようで面白い。

 

Nick Bertke本人の自己紹介動画もある。本人のインタビューや音楽制作の場面を垣間見れる。

 

ディズニー以外にもターミネーター2などのハリウッド映画、スポンジ・ボブなどのテレビアニメやテレビドラマ、ケニヤやブータンといった諸外国の映像と音声をミックスしたミュージックビデオがYouTubeにアップされている。

ぜひチェックしてみてほしい。

PogoがYouTubeに登録した動画一覧(人気順)
http://www.youtube.com/user/Fagottron/videos?flow=grid&sort=p

Pogoのオフィシャルサイト:POGOMIX
http://pogomix.net

「Publicでのマナー」と「Privateでのマナー」のどちらを重視するタイプか?

コンビニ等でアイスの冷凍ボックスに入った写真や飲食店で食品を不衛生に扱っている写真をTwitterに公開して楽しむといった奇行が悪い意味で注目を浴びている。そのマナーに関する問題の背景をテーマに、学歴や家庭の経済力によるマナーやモラルの分類についての、はてなのブログ記事を興味深く拝見している。例えば人気がある記事でいうと次のような記事。


「うちら」の世界 - 24時間残念営業

私のいる世界 - ひきこもり女子いろいろえっち

学歴の有無と常識の有無 - 脱社畜ブログ


個々人のマナーの在り方の要因について今回は別の視点を導入したい。それは「Publicでのマナー」と「Privateでのマナー」のどちらを重視するタイプか?という視点。

2つのタイプの定義

「Publicでのマナー」

ここで「Publicでのマナー」とは、公共の場での振る舞いや行儀のことを意図している。どちらかというと、知らない人たちの視線が意識されている、ということである。「Publicでのマナー」を重視している人は、Privateでの振る舞いや行儀について寛容であることが多い。

「Publicでのマナー」重視タイプは、公的な社会空間内での自己の見え方を重視している。

「Privateでのマナー」

ここで「Privateでのマナー」とは、親族や知人、友人のいる場での振る舞いや行儀のことを意図している。どちらかというと、知り合いたちの視線が意識されている、ということである。「Privateでのマナー」を重視している人は、Publicでの振る舞いや行儀について寛容であることが多い。

「Privateでのマナー」重視タイプは、私的な社会空間内での自己の見え方を重視している。


ちなみに、「うちら」の世界 - 24時間残念営業 に出てくる「うちら」は、ここでの「Private」な社会のひとつという定義。


2つのタイプについて

2つのタイプの対比の理由

なぜこの2つのタイプで対比するかというと、自分の経験上、家族や知人の多くがこのどちらかのタイプに分類できることが多いから。


特に子育てをしていると、親のタイプがこのどちらかに寄ってて興味深い。もちろんひとつの家族でもパパ、ママで同じタイプだったり、タイプが違ったり、家族ごとにバラバラである。なお、子どもにおいては、躾をする機会の多い保護者のタイプに影響されて育つはずである。そのためか子どももやがてはどちらかのタイプに偏るのではないだろうか。


いずれにしてもどちらかのタイプに分類できるケースがほとんど。親同士や知人と話していても学歴などに関係なく、必ずどちらかのタイプである。思い返してみると、自分が子ども時代の友人たちも必ずこのどちらかのタイプだった。


繰り返しになるが、躾係の保護者がどちらを重視するタイプかで子どものタイプも決まり、大人になるにつれて、そのタイプ重視の行動が顕著になっていくと考えられる。


「Publicでのマナー」重視タイプの例示

僕は「Publicでのマナー」重視タイプである。自分は0歳のころから通勤電車で母親の職場近くの保育園に通園していたので、必然的にPublicでのマナーを重視する価値観に育った。


例えば電車で窓の外を見ようと座席に後ろ向きに座るとき履物を脱ぐのは当然のマナーと思っている。新品の靴を履いて家からだっこしたまま乗車したとして、自分の子どもは靴の裏が全く汚れてないので、その場合は靴を履かせたまま座席の上に乗ってもいいのだ、という考えもない。その行いが周囲からどう見えるか、それが重要なのである。


その反面、「Privateでのマナー」は軽視している気がする。近所で知り合いにあっても挨拶ができない子どもだった。僕の親もPublicでのマナーに比べ遥かにPrivateでのマナーには寛容だったので知人に挨拶ができなくても軽く諭す程度のものだった。


「Privateでのマナー」重視タイプの例示

「Privateでのマナー」を重視するタイプは、子どもに対して、知人への挨拶や親同士の会合内での振る舞いには厳しい反面、電車内では靴で座席の上に乗ってても、靴の裏を通路に向けて座ってても平気だったりする。僕はこのタイプではないので、実はどういう経緯でこのタイプになるのか、よくわからない。


とはいうものの、僕は「Privateでのマナー」重視タイプに憧れる部分もある。付き合いが上手なのだ。友達や恋人など、相手から自分がどう見えるか心得ていて、付き合いのマナーを優先的に実践できるので、周囲からも人気がある。


コンビニ等での奇行について

ここでは、学歴、家庭の経済状態、地域性とは異なった尺度で、「Publicでのマナー」と「Privateでのマナー」の2タイプを導入してみた。


そして僕の考えでは、公共の場やTwitter等のその他大勢の目が意識されない振る舞いを行うのは「Privateでのマナー」重視タイプなのではないかと思っている。


「Privateでのマナー」重視タイプは友人の目を重視するので、コンビニ等での奇行の目的が友人からの評価だったのなら矛盾はないはず。


このタイプ分けを推す理由

僕には、このタイプ分けのほうがわかりやすい。学歴や家庭の経済状態といったものは関係なく、どちらのタイプもいる。「学歴」みたいな括りだとそこに属している以上どうしようもない感じだが、このタイプ分けなら、仲間内に2つのタイプが混在していると想定されるので、一連の公共の場でのマナー問題のような社会問題への対処の道が見い出せるように思う。


最後に

どちらのタイプが優れていると言うつもりはなく、どちらのタイプであっても「意識できない方」を意図して意識するように注意しないと社会ではうまくやっていけない気がする。


僕は「Publicでのマナー」重視タイプなので、友人や家族の目を意図して意識していかないといけないと思っている。

映画『風立ちぬ』を観て、なぜか美味しんぼの『愛ある朝食』にたどり着いた

先週の日曜日、時間があったので映画『風立ちぬ』を観てきた。(『風立ちぬ』についてはネタバレなし)

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宮崎駿, 2013年. 『風立ちぬ』 スタジオジブリ http://kazetachinu.jp

恋とお汁粉

スタジオジブリの映画は、じきにテレビ放映するからという理由で映画館で観ないことが多いが、『風立ちぬ』は間違いなく映画館で観てよかった。


テーマやストーリーは三行で言えてしまうくらいにシンプルなもの。それを2時間という時間を使って、徐々に主人公に感情移入して作品のなかに引き込まれ、しまいには至極複雑で心揺さぶられる心境に到達させてくれ、“映画”としての満足感を存分に味わうことができた。


映画館を出て「満足、満足」とばかりに余韻に浸っていたら、漫画『美味しんぼ』の、甘味処へわざわざお汁粉を食べに来る人たちが求めているものを解き明かす話をふと思い出した。甘味処が映画館、お汁粉が映画だとすれば、まさに『美味しんぼ』の話のようで、満足感が一層増したのであった。


その甘味処の話をもう一度読みたくなり、実家の書棚から『美味しんぼ』第42巻を見つけ出して読んでみた。『恋とお汁粉』という題で、単行本が1993年12月1日初版発行だから、ちょうど今から20年前の話である。現代のようにコンテンツを大量消費できる時代にあって、“映画”はますます甘味処のお汁粉であるべきだと感じたが、『風立ちぬ』の感想と離れてしまうのでやめておこう。

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<雁屋 哲 (著), 花咲 アキラ, 1993年. 『美味しんぼ』(42) (ビッグコミックス) 小学館>


読み終わった後で『美味しんぼ』第42巻のメインタイトル『愛ある朝食』が気になった。『愛ある朝食』も20年前に読んだきりだが、印象に残っていたので興味が湧いて読んでみた。


愛ある朝食

『愛ある朝食』は週刊誌4週分が1話になっていて、つまり話が長い。なので2週分はパラパラと読み飛ばし、3週目の究極のメニューと至高のメニューの対決から読んだ。実は読み返すまで対決の結果は全く憶えてなくて、対決後会場を去り際の海原雄山と栗田ゆう子のやり取りのところだけ記憶に残っていたのだけど、対決の結果発表のくだりを読んで驚いた。対決の審査結果の発表と共に審査委員から結果に至った理由が説明されるのだが、映画『風立ちぬ』を観終わって感じた評と同じだったからだ。


そして、この『愛ある朝食』における究極のメニューと至高のメニューの対決の各陣営の有様が映画『風立ちぬ』と、ここ何作かの宮崎駿監督の映画との違いを表しているように見えて仕方がない。


究極のメニューと至高のメニューの登場人物、対決について

美味しんぼ』において究極のメニューと至高のメニューの対決はお決まりの構図がある。それは、過去から現在に至るまでの広く深い知識により答えを持つ者として描かれる至高のメニュー海原雄山と、答えを持たない状態から答えを見つけ出そうとする者として描かれる究極のメニュー山岡士郎と助手役の栗田ゆう子という構図である。対決においては、海原雄山は客観説明的である一方、山岡士郎と栗田ゆう子は未熟面を補うべく情緒的な要素を織り交ぜてプレゼンを行ったりする。


美味しんぼ』では、さまざまなお題でメニュー対決が行われるのだが、答えを持つ者・海原雄山が常に勝利するというわけではなく、山岡士郎と栗田ゆう子も海原雄山を超える答えを導きだして勝利したりする。海原雄山という軸があるおかげで毎回スリリングな対決になる。


これまでの宮崎駿監督の映画には海原雄山がいた

さて、話を宮崎駿監督の映画に戻そう。映画『崖の上のポニョ』までの宮崎駿監督の映画は、答えを持つ者・海原雄山的な面があったように思う。“神”的なキャラクターが登場し天変地異を操ったり魔法を使ったりしてその実力を示した上で普遍の真理的なことを述べる。作品としては作る側は答えを持っていてそれを映画観賞者に提示するという態度である。至高のメニューを発表する海原雄山もそういう態度なのだ。その“神”的なキャラクターのセリフ、時に主人公を助ける様は、観る者に大いなる安心感を与えてきたことだろう。


一方、映画『風立ちぬ』ではどうかというと、“神”的なキャラクターが登場しないのである。


映画『風立ちぬ』のメッセージについて

ここで再び『美味しんぼ』の『愛ある朝食』に話を移す。『愛ある朝食』での究極のメニューと至高のメニューの対決では、山岡士郎がメインで究極のメニューを担当するのではなく、栗田ゆう子が究極のメニュー作りを一手に引き受ける。「朝食」と題されたこの対決に栗田ゆう子は自身の人生も賭けている。何を賭けているかは漫画を読むべきなので割愛するが、助手役で常に勝ち負けの脇に存在していた栗田ゆう子が初めて勝ちにこだわるのである。


そして対決が始まり、答えを持つ者・海原雄山が揺るぎない自信で“答え”を発表し終え、審査結果を待つ間のシーンがこれ↓。もちろん読者である私は主人公の山岡士郎と栗田ゆう子を応援しながら読んでいるのだが、何と心細い場面だろう。

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<雁屋 哲 (著), 花咲 アキラ, 1993年. 『美味しんぼ』(42) (ビッグコミックス) 小学館>



『愛ある朝食』では、このあと究極のメニューと至高のメニュー対決の審査結果の発表があり、続いて結果理由が述べられる。そこで元切込隊長山本一郎氏の隣にいる審査員が語っている評が、映画『風立ちぬ』から私が受け止めたメッセージと見事に一致したのである。「生きねば。」とは、つまりそういうことだ言わんばかりに。ここでは漫画の核心に触れないので興味があれば自身で読んでほしい。

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<雁屋 哲 (著), 花咲 アキラ, 1993年. 『美味しんぼ』(42) (ビッグコミックス) 小学館>


映画『風立ちぬ』は栗田ゆう子が作る「愛ある朝食」

映画『風立ちぬ』は、栗田ゆう子が対決のために用意し、2つ上の写真の場面で自ら評した「ただ美味しいだけの朝食」だと思う、皮肉とかではなく良い意味で。海原雄山の答えと異なり、「ただ美味しいだけの朝食」だからこそ、答えが不定なのであって、人それぞれの生き方や人生観によって、さまざまな答えが生じる可能性があるのだろう。


ちなみに栗田ゆう子が作った「朝食」は、栗田ゆう子のオリジナルではなく、別のオリジナルがあり、それを一部栗田ゆう子の味付けを加えて再現したものである。オリジナルからのリミックスだという点も映画『風立ちぬ』は似ている。そして『風立ちぬ』で菜穂子が作っていそうな「愛ある朝食」も、栗田ゆう子のほうの朝食をイメージするし、とにかく栗田ゆう子の「朝食」が映画『風立ちぬ』という作品が象徴している(と私が感じる)モノと、ことごとく一致するのだ。



(映画『風立ちぬ』とはてなブログの類似性)

はてなブログもリリースされた当初は審査結果を待つ栗田ゆう子の表情のようでしたね。美味しんぼとの類似性になってしまいましたが「はてなオリジナルTシャツ2013」ほしいです。

はてなTシャツ2013ができました! プレゼントキャンペーンを実施します
http://pr.hatenastaff.com/entry/hatenatshirts2013

お桜見

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伊勢山皇大神宮の脇の階段を下った中腹には、奥に墓標を配した20畳ほどの中庭がある。覆い被さる木立の深い緑と調和した枯茶色の木製の門がこちらとあちらの空間を遮っていて、まだ日は暮れていなかったが、軒には早くも電燈が灯っていた。紫色のガラス製シェードから漏れ出る光は弱く、桜花や石畳の輪郭を縁取っている桜の花びらの白が周辺を明るく見せていた。